皆様こんにちは、マッキーです。
今回は「第5回東北被災地語り部フォーラム2025」より、
3月3日のオプションプログラム
気仙沼・南三陸・石巻を巡る語り部バス」の内、
私が乗車いたしました「南三陸・石巻」分を紹介いたします。

まずは、震災遺構の「高野会館」。
こちらは当館の語り部米倉信一様によるお話しをお聞きしました。
(当館から車で約5分)

こちらは震災当時のまま大幅な改修などをせず、
まるで14年前あの時から止まっているかのように、
今もなお現状維持に努めている民間の震災遺構でございます。

当日は町の高齢者の方々の
芸能発表大会が行われていましたが、
現場スタッフの冷静かつ勇敢な行動により、
327名と2匹の犬の尊い命を救った場所になりました。

そして高野会館屋上からは、
「南三陸町震災復興祈念公園」がご覧いただけます。

園内には、
・町内の犠牲者804名の名簿を納めた「名簿安置の碑」
・津波により多くの犠牲者を出した赤い鉄骨が特徴の
「防災対策庁舎」
・そして南三陸産の杉を使用している「中橋」
等がございます。

この日は冷たい風が吹き抜ける中でございましたが、
皆様熱心に耳を傾けており、
参加者からは、
•津波が来た所(線)に印を付けたら良いのでは?
•東日本大震災の経験から、指定避難所にしたら良いのでは?
という意見も頂戴いたしました。

そして、海の見える命の森で実行委員会にお世話になっている
森の番人こと阿部寛行様には、
南三陸ホテル観洋から大川小学校に向かう道中に
石巻、南三陸をテーマに、
集団移転や防災、北限のオリーブ、志津川湾の漁業についての
お話しいただき、
帰りに大川小学校から石巻駅に向かう道中は、
大川小学校に関する質疑応答を行いました。

大川小学校に到着後、
今回は大川伝承の会協同代表の鈴木典行様による語り部が行われました。
東日本大震災の津波で児童・教職員84人が死亡・行方不明になった大川小学校。
自身も当時6年生だった次女を亡くした鈴木典行様。

被害の甚大さが克明に記録されている大川小学校を観ながら、
当時の想いやここまでの歩みを語っていただきました。

身振り手振りを交えて話す様子に、
参加者の皆様も真剣に聞き入っていました。
大川小学校は、多くの方が犠牲となってしまった場所です。
鈴木様も、大事なお子さんをなくしておりますが、
このような悲劇を繰り返さぬよう、伝える活動をしておられます。

鈴木様のお話しをお伺いして、
私が特に共感したのが、
あの日何故、先生•生徒は校庭に留まっていたのか
(地震から津波が恐らく到達したと思われる約50分の行動)

実は、まるで自分達の庭のように野外学習で使用していた
学校近くの山は実際に登って見ても、
本来は恐らく3~5分で足を運べる場所であり、
様々な状況を考慮しても10~15分程で避難できるのではと思いました。

しかし実際は多くの先生・生徒が何故か
川の近くにある三角地帯に避難したようです。
(生徒の中には、山に避難しようとした子供もいましたが、
 先生に呼び止められ、校庭に戻ったという話を聞きました)

そして恐らく避難途中に津波に巻き込まれ、
土砂や瓦礫の中に子供達が居るかもしれないという中、
道具を使わずに素手で掘り起こすという
鈴木様含め保護者の想像を絶するような状況、
またこのような状況にも関わらず、
自分の子供の遺体を探し出した際に保護者でさえ、
家族の元へ運んだりする事が出来ず、
色々な決まり事に縛られるやるせない気持ち。
その2つが印象に残っています。

地震や災害は、将来必ず起こること。
その被害をいかに最小限にできるか、
どのようにしたら一人の犠牲者も出さずに済むか。
いざというとき、どうするか。
それぞれのご家庭で話すきっかけとなり、
防災・減災に繋がると幸いです。