震災から8年目の3.11

皆様こんにちは、マッキ―です。

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東日本大震災発災から昨日で8年。
当時より応援・ご支援・ご協力いただいてきました皆さまへ、
改めて心より感謝と御礼を申し上げます。

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昨日(3月11日)の天気は、
まるで震災当日の悲しみを表すかのような雨、
そして、海も大荒れという悪天候。

その中でも、当館スタッフ・ご来館いただいたお客様が、
5階のロビー・ラウンジに集まり、
震災で亡くなられた方々に追悼の意を表し、
3月11日14時46分に、黙祷いたしました。

震災当日、猛威を振るったこの志津川湾も、

現在では多くの海藻類が育ち、
それらを求めて飛来する絶滅危惧種の「コクガン」などの野鳥が、
この志津川湾に姿を見せています。

その多様な自然環境が評価されて、
昨年、ラムサール条約に登録されました。

そして、この自然豊かな志津川湾とともに、
震災の記憶を風化させることなく、
今後も当館は後世に語り継いでいきます。

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~防災・減災について学ぶ~
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ご宿泊の際には、
ぜひ語り部バスにご乗車いただき、
震災当日の南三陸、
そして被災地の「いま・これから」を
一緒に考えませんか。

東北・南三陸から想いをこめて。

皆さん、こんにちは。カナです。
最近は本当に暖かくなってきましたね。
春もすぐそこまで来ているのかもしれません。

本日3月10日。
ボランティアの皆様と共に開拓を進めている、「海の見える命の森」にて、
今年で第3回目の開催となる「桜の木 植樹会」が行われました。

「海の見える命の森」は表の山道からの入口と、
山を切り拓き、車で山頂まで向かう2つの通路が完成しました。
(↓切り拓く前の様子。一応、裏道として使われていました!)

(↓山頂側から見た上記の写真の様子です。「道」になっています。)

整備にはもう少し時間がかかりそうですが、
桜の苗木や作業するための道具などは安全に運べるようになり、
前よりも作業が進みやすくなりました。

そして、前よりも草木の整備も進み、海を180度眺める事ができるようになっています。
皆様の協力により開拓が進んでいく「海の見える命の森」です。

【過去 2回の内容です】
□2017年の様子【あれから、6年】
□2018年の様子【3.11 南三陸より】

私の地元の震災当時のお話となりますが一読頂ければ幸いです。
□2018年掲載【新たな一歩を】

3回目となる今年は例年より多く皆様にご参加いただき、
約100名近くの方と一緒に植樹を行い、新しい桜の木がまた増えました。

本日はその様子をご紹介いたします。

朝10時。雨の予報があった今日はぽかぽか天気での開始となりました。
開会のあいさつは当館で「語り部ガイド」として、
町内の案内も行っている 後藤一磨実行委員長より。

「今日は大勢の皆様をお迎えできて、とても嬉しく思います。
皆様が立っておられるこの森を、私たちは「命の森」と名付けました。
森に降った雨は草や木を育て、大地の養分を吸収し田畑を潤し、
やがて海にそそぎます。
その養分がワカメや植物プランクトンを育てます。
植物プランクトンは動物プランクトンや牡蠣のエサになり、
また、小魚の命を育み、中型魚、大型魚へと命が巡るのです。
それらを私たちは食べて生きています。
壮大な命のドラマがこの森から始まるのです。

今日はこの森に「エドヒガンサクラ」を皆さんに植えて頂きます。
「千年の寿命」を持つ桜の苗木です。
春になると山の神が里に降りてきて
農業の神様=作の神になるといわれています。
その作の神が降り立つ木なので「サクラ」と名付けられました。
沢山の皆様のご厚意で苗木が用意され、沢山の皆様の手で桜が植えられます。
今年で3回目を数える行事となりました。
百本を超す桜の森となります。皆様に感謝致します。
何年か経てばこの森は海を望みながら花見ができる場所になるでしょう。
桜の花を愛でながら8年前の津波を想い、
「命とは何か」を考える場所にできたらと思っています。
慣れない作業かと存じます。気を付けて桜を植えてください。」

今回、約100名の皆様に植えて頂いたのはこれから先1000年も生き続ける
私達が今の世界からいなくなって、ずっと先の人たちへ。
あの日起きた出来事と共に伝わっていくように植樹や開拓を続けます。

この後は、桜協賛企業の代表者様にそれぞれ挨拶を頂きました。
・株式会社アデランス 国内事業総括部 渉外担当部長 藤生様

・東京世田谷区ライオンズクラブ会長 丸山様

・P&Gプロクター・アンド・ギャンブル・ジャパン株式会社 佐沼店店長 永谷様

・富士通エンジニアリングテクノロジーズ株式会社 管理本部長 箭内様

・ピクテ投信投費顧問株式会社 取締役社長 萩野様

・東北福祉大学バレー部 ライジングサンの皆様(代表者様)

・菊武学園大学学生・大学スタッフの皆様(代表者様)

・ナガイレーベン株式会社 澤登慎平様

その後は、作業の注意などの説明があった後、

「桜祈念植樹セレモニー」を開催。
初めは桜並木ネットワークの桜野様より、
「エドヒガンサクラ」の植え方などをご説明頂きました。
まだ幼い木の幹は根っこが折れてしまうともう枯れてしまう事、
あまり深く掘って中に入れても育ちにくいこと、など、
木の習性と共にお教え頂き、

そして、その後に最初の1本を、代表者の皆さんで植えてスタートとなりました。

今回は各3チームに分かれ、斜面での作業です。

もともとの山を開拓している事もあり、少し急斜面の場所などは
お互いに声をかけあっての作業となりました。風が強いと少し危ないような感じです。
所々には休めるように丸太で作ったベンチもあるため、
山の景色を見ながら一休みできます。

観洋スタッフでも植樹を行いました!目印は斜面の丸太ベンチ付近です。
(写真左から、昆野副支配人・尾崎部長・齋藤課長)

土の中は他の根っこだらけでしたが、それを邪魔にならないように取り除き、
丁度良い深さまで掘り進め、根と幹のつなぎ目が隠れないくらいの深さを掘ったら、
穴に入れ、栄養の入った土を上からかぶせます。

その後はまた掘りだした土をかぶせて、再び栄養の入った土をかぶせます。
そして上から水をかけて中まで浸透させた後、木の近くに穴をあけ、
上記写真左部分に写っている竹を差し込み、木の幹を預けるように結びます。
→まだ細い木の幹は風が吹いてしまえば簡単に折れてしまうため、
支柱が必要との事でした!

他のチームも順調に植樹を行っていき、

お昼すぎ頃には今回第3回目の苗木は無事、怪我人もなく植え終わる事ができました。
その後は山頂にて参加して頂いている皆様と一緒に昼食。
(うっすらと「ハロ」も見る事ができましたよ!見えている木は「山桜」です♪)

参加者の皆様、海を見ながらのお弁当はいかがだったでしょうか?
今日は天気もぽかぽかで外でのお弁当日和ともいえる天気でした。

午後からは、
「東日本大震災追悼の祈りと復興への願い」セレモニーを開催。
当館の阿部女将より追悼挨拶がありました。

「明日3月11日で東日本大震災から、8年が経過します。
たくさんの皆様から応援をいただいたおかげで今日を迎える事ができました。

南三陸町の中心部においては八割もの被災でございます。
駅も警察署も病院も役場もすべて失ってしまった環境の中で
我々も「何とか前を向かなくちゃ」と思いながら、
一歩一歩進んできてこの8年を迎えることが出来ました。

我々も「この出来事を風化させてはならない」と
思ったわけでございますが、
他県よりお越しいただいた方からは、
「ここは初めから野原だったのですか」「さら地だったのですか」
と町中に行かれると仰るようになりました。
それを聞き、「きちんとお伝えしなくては」と思いました。

今、海の見える命の森にて実行委員長をされている後藤一磨さんは、
「語り部」として震災直後からご尽力を頂いております。

昨年よりこの地に設置をした、「津波てんでんこ」の石碑。
「てんでんこ」は「てんでんばらばら」の方言で、
津波が来たらバラバラでも高台に逃げる。
「いのちてんでんこ」とも言えます。
この地域の人たちが忘れてはならない言葉、
そして、東北のみならず他県の方にもぜひ覚えていてほしい言葉です。

ご協力頂いている桜並木ネットワークの皆様には
震災後より各地にて五千本もの桜の木を植樹頂いております。
「津波で被害があった場所へ桜を植樹する。」
それはだんだん大きくなってきたら、地元の子どもたちにも分かりやすく、
「津波がきたら桜の木よりも高い場所へ避難するんだよ」の教えにも繋がります。
それから東北はやや寒さが厳しい場所ですから
春を迎えるにあたって、やはり肌で感じる暖かさだけではなく、
目で見て感じるピンク色の山が色づくと言うのは
とても人の気持ちを明るくするなと感じました。
その素晴らしいプロジェクトが
この海の眺めの良い山にお話が届いた時にはとても嬉しく感じました。

今日、地域の方がここにお越し頂いた際に、
「こんなにここは海が見える場所だったんだね」とびっくりされていて、
「良い場所ができた」と喜んでおられました。

皆様と一緒に追悼の式が行えること、大変感謝申し上げます。
大震災にて失われた尊い命の御霊に皆様と祈りを捧げたいと思います。宜しくお願い致します。この度は本当の心より感謝申し上げます。

追悼挨拶の後、各団体・企業の代表者様に献花を行って頂きました。

海へ向けて、想いを献花に。
その後にも、ご参加者の皆様にも献花をして頂きました。

2011年3月11日。午後14時46分。
この時刻に合わせ、海が見えるこの場所で黙祷を捧げました。

今回で3回目となる「海の見える命の森 桜 植樹会」

閉会の挨拶と共に今日、1つの報告がありました。
それは3年前、第1回目の時に植えた桜の木に小さな小さながついた事。

これは紛れもない第一歩です。
今年、咲くかどうかは分かりませんがこの海を見守りながら育ってきた桜の木。
これから何十年、何千年先にはここがピンクの桜で満開になっていることを、
また再びこの地で会える事を祈って、
最後は集合写真を撮影し、無事幕を閉じる事ができました。

明日、2019年3月11日で2011年に起きた東日本大震災から8年が経過します。
8年が経過する今、震災遺構として残っているものを後世にどのようにして
伝えていくのか、今、私達が出来る事は、やらなければいけない事は、
何なのか、考える日になるかと思います。

明日、実際に現地に居なくても、
想いをよせていただくだけでそれが1つの支援となります。

明日は様々な当時の映像がテレビや、インターネットでながれます。
「他人事」とは思わず「自分事」として今一度、災害について考えて頂ければ幸いです。

東北・南三陸より想いをこめて皆様に感謝申し上げます。
これからも復興の様子を見守って頂ければと思います。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館は明日から公開開始

こんにちは、むっちゃんです。

明日、3月10日
震災遺構として保存が決定した「旧気仙沼向洋高校校舎」が
東日本大震災遺構・伝承館としてオープンします。

なので本日は、私の母校である向洋高校の
震災当時の様子を少しお話します。
(手持ちの写真が少なく、文字が多くなることをお許しください)


2011年3月11日。
あの日は午前授業でしたが、
部活や補習授業などでほとんどの生徒が校内に残っていました。
私も学校に残り、学年最後だからと
クラスの皆と鍋パーティーをしていました。

自由解散だったので、
午後2時半過ぎ、そろそろ帰ろうと友達と一緒に校舎を出ました。
緊急地震速報が鳴ったのは、そのすぐ後です。

あの時は誤報も多く、小さな地震でも速報が鳴っていたので、
今回もどうせ誤報だろうと思い込んでいました。

けれど、起きたのは立っていられない程の大きな揺れ。
近くに停まっていた車は生きているかのように飛び跳ね、
慌ててしゃがみこんだ地面はすぐに地割れを起こしました。

揺れがおさまったとき、真っ先に聞こえたのは
「逃げろ!!」
という先生の声でした。

校内に残っていた生徒は迷うことなく正門へ向けて走り、
点呼を取りながら地福寺、陸前階上駅、階上中学校へと高台に避難しました。

その途中に振り返って見た
沿岸に生える樹木を遥かに越える真っ黒な津波は今でも忘れられません。

学校は海岸から約500mの場所に建っていましたが、
先生の素早い判断のおかげで、
校内に残っていた生徒は全員無事でした。

それから、電気水道が回復し、
向洋高校の三科それぞれが、市内の高校三校に分散して授業を行っていた頃。
一度だけ、被災した向洋高校に行ったことがあります。

どういう状況なのか、知りたかったからです。

実際に行ってみると、がれきだらけであまり近づくことはできませんでした。
ただ分かったのは、
せっかく新しく工事していた校舎がめちゃくちゃになってしまったことと、
校庭に建てられたプレハブ校舎が跡形もなく消えていたことでした。

実は、入学してすぐ校舎の工事が決まったので、
本校舎で授業を受けた回数は少なく、
主に学校生活を送っていたのはプレハブ校舎でした。

思い出深いプレハブ校舎が
跡形もないことがとても悲しかったのを覚えています。

三校に分散後は、
気仙沼高等学校の第二グラウンドにプレハブ校舎を建て、
そこで卒業までを過ごしました。

現在は、
旧校舎から2キロ程離れた場所に建てられた新校舎で授業が再開されています。


初めに言った通り
今なお震災の爪痕が残る旧向洋高校の校舎は明日から一般公開されます。

明後日で、東日本大震災から8年。
時間が経つにつれて、記憶が薄れていくのは当たり前ですが、
もう一度あの時の状況を胸に刻むためにも多くの方々に見ていただきたいです。

校舎内は、ほとんど当時のまま残っています。

4階まで押し寄せた津波の跡も、
教室に流れ着きひっくり返った車も、
骨組みがむき出しになった教室の天井も、
床に散らばる教科書や上靴も全て、あれから変わっていません。

先日、旧向洋高校に行く機会がありました。
特別に中を見せていただきましたが、
懐かしい気持ちと共に、当時を思い出して涙がこみ上げてきました。

見たくない方もいると思います。
思い出したくない方もいると思います。

それでも、風化させてはいけないんです。
今後起こる災害から自分の身を守るため、
誰かの命を守るため、忘れてはいけないんです。

校舎の公開は限られたところのみですが、
伝承館には津波の脅威を伝える大型の映像シアターなどもあります。

海風をさえぎるものは何もないので、冬場はとても寒いですが、
あの時学校に残った先生たちはこんな寒い中一夜を過ごしたのかと
身をもって知ることができると思います。

開館時間や入館料などの詳細は上記画像の通りです。

東日本大震災から8年。
向洋高校を知っている方も知らない方も、
一度足を運んでみてください。
改めて感じること、学ぶことがたくさんあります。

どうか、明日からの一般公開が、
同じ悲劇を繰り返さないため、
災害について再度考える良い機会となりますように。

マリンパルだより 3月その2

こんにちは、マリンパルゆりでございます。

大家好,我是保育园的优莉。

また少し寒いですが、南から爽やかな風を伴い陽気上昇。もうすぐ春が来るかなと感じます。

今週、久々の嬉しい再会があり、気持ちも春のように暖かくなってきました。

そうですね、横浜から来た金子初音さんと言の葉墨彩画家の作家のひろはま先生たちとの再会です。

虽然还有些冷,清爽的南风已经带来上升的阳气,让我们感到春天已经很近了。

最近,令人愉快的久违的再会,更加让我从心里感到春天的温暖。

这就是,与来自横滨的金子初音女士和言语水墨画作家广浜先生的再会。

今回、「第21回、あなたのとなり展」の搬入のため、ひろはま先生御一行3名がホテルに3日間お泊まりいただき、春にぴったりの様々な新作を展示してくださいました。

借「第21届,在你身边展」布展的机会。广浜先生一行3人,在酒店驻在3日,布置了充满春天气息的展台。

ひろはま先生も皆が参加出来るようにとその場でタンポポの絵にありがとうのメッセージをかいて、伝えたい、想いを書いて、貼ります。展示会は5月20日まで開催しております!ぜひお越しください!お待ちしていますよ。

`广浜先生在现场绘制了巨幅的壁画背景,并且请大家参与,将写有自己向最想感谢的人传达的心情和留言写在蒲公英的卡片贴在留言背景上。此次展示会到5月20日为止。欢迎广为参与,敬待大家的光临。

ひろはま先生ご本人です!

这是广浜先生本人!

なにより、その間、ひろはま先生達はマリンにもきて下さり、ご一緒された初音さんが本物の劇団から衣装を借りてきていただきました。衣装を皆に着せると・・・。こんな仕上がりに!(●^o^●)似合うでしょ!?

更令人高兴的是,在这期间,广浜先生一行还抽空来到保育园,借来了真正的剧团用服装,让大家换装。。。。。换装后的我们是这样的。。。。。(*^。^*)

小さい頃日本のアニメ「一休さん」が大好きの私、まさか自分も一休さんの衣装を着て、一休さんになれるなんて!何と懐かしく小さいころ見たアニメをいっぱい思いだしました。

みんなノリノリでいろんなポーズをしたり,チューチュートレインのものまねをしたりして大笑いして、本当に楽しい時間を過ごしました。

小时候就非常喜欢,可以说是看着日本动画片「一休」长大的我,是一休的忠实粉丝。没有想到,自己也可以扮演一休,让我回想起了很多小时候的事情。

大家兴奋得模仿着一休的动作,模仿着轮回旋转。。。。。大家开心的笑着,闹着,开心极了。

衣装は、横須賀の劇団河童座さんが快く貸して下さいました!演劇の「あおげあおげ」で使用する衣装です。

服装是从横须贺的河童座剧团借来的,狂言剧「仰,仰」用。

似合うでしょ(*^。^*)小坊主に変身です。

像不像小和尚。(*^。^*)

短い再会の時間はあっという間、お別れの時間になりました。

相聚是短暂的,一晃又到了分别的时候。

3日間、本当に嬉しい再会、また次の再会をたのしみしてます、おまちしていま~~~~す。

非常令人高兴的再会,期待着下一次的再会。

皆さん時間あれば、是非ホテル観洋においでいただき、展示会をご覧くださいね、きっと何か気になるものと出会えるかもしれないよ!

「ありがとう」のメッセージのご記入もお忘れなく!!

如果有时间,一定来酒店参观一下,也许会发现自己喜欢的东西。

感谢的留言不要忘记哦!!

第2回東北被災地語り部フォーラム 【分科会①】震災遺構の保存と役割を考える

皆さんごきげんよう、ゆきでございます。
今回は分科会①の内容をおまとめしてお届け致します。

~ブログの曜日やイベントの関係上、前後してしまいますが、後ほど読みやすく順番を変更致します~

分科会①
震災遺構の保存と役割を考える

コーディネーター:山内 宏泰 氏(気仙沼リアスアーク美術館副館長)

パネラー:鈴木 卓也 氏(南三陸ネイチャーセンター友の会代表)

宮本 肇 氏(前北淡震災記念公園総支配人)

釘子 明 氏(陸前高田寿一語り部くぎこ屋代表)

今回の議題は、震災遺構の保存について。
しかし、遺構は保存が難しいのです。
なぜ、難しいのでしょうか。
それは、遺構は何か、定義が出来るものではないことが理由として挙げられます。

遺構を残す方法としては、公的に保存することと、私的に保存する2つの方法があります。

遺構を残すために考えられることと言えば
・・・やはりお金がかかること。公(おおやけ)の機関による支援が必要不可欠です。
しかし、公的機関の支援を受けるには、様々な条件があり、全てクリアすることが難しいです。


高野会館(2013年撮影)
2011年3月11日、 327名と、犬2匹の命が守られました。

当館が所有する「高野会館」は私的に保存をしていくことを決めました。
条件等はありませんが、お金がどこからも出ない上、
全ての責任を個人が負わなければなりません。
しかし、保存するための理由は、個人的な目的ではありません。

お金は出るが様々な条件がある公的、
条件はないが資金的援助がない私的、
それぞれのメリット・デメリットがあります。

遺構は公的定義が出来ないものがほとんどです。
建築であれば、建築基準法を守らなければなりませんし、
人が入るようであれば、消防法を守らなければなりません。

建築物という形では残せないのです。

では文化財としてはどうか?
・・・遺構を文化財にするには時間的条件などがあります。

残す方法の一つとしては、囲った公園の中に残ことが挙げられます。
今残されている遺構のほとんどがそれに該当します。

公園化のメリットとしては、もちろん公園内に残せることです。
デメリットとまではいかないかもしれませんが、「公園」という定義をすることにより
遺構の意味が、本来の目的とは違うものとなってしまう恐れがあります。

また、「遺構=人工物」というパターンが多い中、
南三陸の事例では「津波により洗い流された場所に新たな自然環境が形成された」ことにより、
それを後世へ残したいという動きもあります。
「災害がもたらしたもの」という意味では、遺構かもしれません。
「人間と自然の関係性」も遺構という形で残せるのでは、という意見もありました。

兵庫県南部地震で出現した野島断層は、人工物ではない遺構の一つです。
地震に備える大切さを後世に伝えるため保存されています。


質問や意見も出ました。

第一分科会の結論としましては、
保存のためには、国や県が定めたある一定の定義を満たす必要性があり、
それを満たすものとしては、遺構の定義づけが自然となされてしまうため、
その土地の地域性や元々持っていた機能(壊れる前はどのような役割を担っていたか)
などが一律に考えられてしまう危険性があります。

遺構の定義はさまざまあるべきなのです。

どうしても、「遺構」と言うと「防災・減災教育の場、祈りの場」でなくては
ならないのではないか、観光目的・人を集めるために使うのは正しくないのでは、
という定義に当てはめてしまいがちですが、
それはケースバイケースで、
観光の為に活用する遺構があって、
教育の目的があって、
祈りの場の遺構があって、
それぞれ
一番正しい方法で残していけば、
意味のある残し方が出来るのではないでしょうか。

震災から8年が経とうとしていますが、
遺構の有り方も確立してはいませんし、
問題がまだまだあります。

これからも話し合いを重ねて、みんなが納得できる結論が出ることを願います。
皆さまのご家庭でも、震災遺構について語るきっかけとなれば幸いです。


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第2回東北被災地語り部フォーラム「ご参加頂いた皆様の感想」

皆さん、こんにちは!カナです(・∞・*)

2月24日・25日に南三陸で開催された、
「第2回東北被災地語り部フォーラム2019」

ブログにてそれぞれの内容を掲載してきました。
本日は分科会などにご参加された皆様の感想を抜粋して掲載致します。
(約400名の参加者様にお集まりいただきました。感謝申し上げます。)

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【関連ブログ】

<前回>
【第1回 東北被災地語り部フォーラム】
東北被災地語り部フォーラムが開催されました。

<今回>

「第2回語り部フォーラム」

「第2回東北被災地語り部フォーラム<分科会②>
 災害を知る世代から知らない世代へつなぐ」

「第2回東北被災地語り部フォーラム
 第3分科会~「KATARIBE」を世界へ~」

「第2回東北被災地語り部フォーラム ★夜の部★」

「第2回東北被災地語り部フォーラム エクスカーション
~気仙沼コース&石巻・大川小学校コース~」
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それでは、下記より皆様の感想を掲載致します。

<分科会①より>
「震災遺構の保存と役割を考える」





参加された皆様からは「震災遺構」を遺す事の難しさ、役割などよく学ぶ事ができた。
との感想が多くございました。
震災遺構は「当時、なにがあったのか」を語らずとも語ってくれるモノです。
「無口の語り部」⇔「震災遺構」の考えが全員に定着させるのには時間がかかる。
との感想もありました。

<分科会②より>
「災害を知る世代から知らない世代へつなぐ」






発表を行ったのは南三陸町並びに近隣の地元の小学生・中学生・高校生。
実際にあの日、震災を経験した学生さんならではの意見で、
「早く避難するためにはどうしたらいいのか」を
グラフにし、考察した結果を発表頂いたり、
目の前で起きた災害を受け止め、次世代へ伝えるには
自分達がどのように動けば良いのか、などをパソコンや資料を通して発表頂きました。
参加した皆様も、学生さんの発表を聞き、
「自分も考えなくてはならない」「何をやるべきなのかをかんがえさせられた」
との感想が多数でございました。

<分科会③より>
「「KATARIBE」(語り部)を世界へ」



参加者の皆様が感じた事は世界への「SNS」を用いた発信方法。
学生さんの発表にもあった、
「世界で起きている災害を「他人事」ではなく、
「自分事」として捉え見つめる事で、
たくさんの命を救う事ができるかもしれない。」
日本では起きない災害があったとしても、
日本を出て旅行などに行けば、遭遇してしまうかもしれない。
自分の命を守れるのは、自分だけであり、
もし避難方法や対処法を知っていれば周りにも教える事ができる。

そして、語り部は日本のみならず世界へ発信すべきこと、
その場合には言語化などはどうするのか、など
パネラーの方の意見や、参加されていた皆様からの意見をまとめることにより、
何十年先にも日本から世界へ発信できるのではないかと思います。

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今月11日で、
2011年3月11日に起きた「東日本大震災」から8年を迎えます。
東北沿岸部を始め、南三陸町も商店街ができたり、
スーパーやコンビニができたり、国道が整備され
ついこの間には気仙沼までの高速道路も開通致しました。
どんどん復興が進んでゆきます。
その間にも様々な災害が起きました。
東北では8年目を迎える今、私達に出来る事は何なのか。
もう一度、考える機会になった今回のフォーラム。

そして、全国でいつ起きるか分からない自然災害。
その時自分が現場に居たら出来る事は?

設営や準備をしていた私達スタッフも向き合う時間となりました。
今回のフォーラムでの意見が、滞らず発信されることを祈っています。
これからも東北・南三陸と共に前へ進んで行きます。

ご参加頂いた皆様、パネラー並びに講師の皆様、
貴重なお時間をありがとうございました。

ぜひ、また東北・南三陸へお越し下さいませ。

第2回東北被災地語り部フォーラム<分科会②>災害を知る世代から知らない世代へつなぐ

こんにちは、むっちゃんです(*^^)

先月24日と25日の2日間に渡り、
第2回東北被災地語り部フォーラムが開催されました。

本日は、その時の
分科会② 災害を知る世代から知らない世代へつなぐ
の様子をお伝えします。

コーディネーターは
元志津川中学校校長で、現在3.11震災語り部として活動している菅原 貞芳様

パネラーとして、
志津川高等学校、多賀城高等学校、階上中学校、志津川小学校、入谷小学校の
生徒さんにお越しいただきました。

分科会のタイトルになっている通り、
今回のテーマは「災害を知る世代から知らない世代へつなぐ

東日本大震災からまもなく8年が経過しようとしています。
時間の流れとともに、当時の状況を知らない世代が増え、
それに伴い懸念されるのは「風化」です。

震災を風化させないために。
当時を知らない人たちの防災、減災へ繋げられるように。
あの日生かされた私たちにいったい何ができるのか。
現在行っている活動を含め、今後についてを話し合いました。

活動の報告をしたのは、
階上中学校、多賀城高等学校、志津川高等学校の生徒さんです。

まずは階上中学校

階上中学校の防災学習は「命を守る」を目的とし、
災害を知る
災害に備える
万が一のために訓練する
を学んでいます。

今年度の防災学習のテーマは「自助・共助
体験的学習と探究的学習の2つに分かれて行いました。

体験的学習では学年ごとに防災学習と総合防災訓練を行い、
探究的学習では地区住民へのアンケート調査を実施。

【体験的学習】
1学年は、講師の方を招いて地震津波のメカニズムを学び、
2学年は、消防署の方々からAEDを使用した救急救命講習を、
3学年は、階上小学校の子ども達へカルタを使って
防災を楽しく分かりやすく教える防災啓発活動を行いました。

総合防災訓練は、気仙沼市防災訓練に合わせた日程で午前と午後の2回。
午前は消火訓練、バケツリレー、炊き出し訓練を地区の一員として参加。
午後は委員会ごとに役割を分担し、避難所初期設営訓練を実践しました。

避難所設営に関しては、
生徒以外の誰でも分かるようにマニュアルを作成。
フローチャートを使った説明があり、
準備物や注意点が詳しく書かれてあるためとても分かりやすいです。

【探究的学習】
こちらは、昨年度から取り組みはじめた活動です。
階上地区全世帯を対象とし、
東日本大震災以前・当時の津波避難行動のアンケート調査を実施。
夏休み前にアンケートを配布、回収、集計を行い、
二学期に全校生徒で考察、10月に校内発表会を開き、その後考察の再検討。
12月の防災学習発表会に備えました。

防災学習発表会は以下の4部構成となっています。
1部:体験的学習の発表
2部:アンケート調査の報告
3部:探究的学習の発表
4部:意見交換

結果から、防災意識は低くないが、
訓練が実践的ではないため危機感が薄れてきているのではと推察。
震災を風化させないためにも地域を知り、発信させていくことで防災意識を高め、
これからも地域の一員として取り組みを行っていくそうです。

続いて多賀城高等学校

多賀城高校の「災害科学科」では
災害や防災について科学的な視点で学ぶことができ、
さらに学校全体としては
防災減災学習
東日本大震災の伝承
全国の学校などとの連携・交流
地域を中心とした社会貢献活動」を行っています。

これらが、
ユネスコが提唱するESD(持続可能な開発のための教育:いわゆる生きる力を養成する教育)
理念に合致し、2017年2月にユネスコスクールに加盟が認められました。

上記活動以外にも
通学防災マップづくり
生徒が入学してすぐに行う取り組み。
津波浸水域や土砂災害危険区が記載された地図に自分たちの通学路を朱記し、
有事の際どこに危険が潜んでいるのかを知ることができる。

津波波高標識設置活動
震災後行っていた津波の高さの調査結果をもとに測量を行い、
道路脇の電柱に津波波高の標識を設置する活動。

を全校生徒が積極的に取り組んでいます。

また、生徒が作成した「まち歩き案内マップ」を使い、
自分たちが設置した津波波高標識をたどりながら、
多賀城市内の被災状況を説明・案内する活動も行っているそうです。

最後に志津川高等学校

県内唯一の地域連携型中高一貫校であり、
南三陸町内の志津川中学校、歌津中学校と、
乗り入れ授業や部活動、生徒会交流を通して連携しています。

情報ビジネス科では、震災前より南三陸町の活性化を目的として
南三陸町モアイ化計画」を実施。
オリジナルの缶バッチやストラップの販売を行い、
町民バスや図書館の図書購入資金を町へ寄付していました。

志津川高校の防災学習として、
定期的に行っている防災訓練があります。

実際に起こりうる行方不明者の捜索など、毎年想定を変えて行い、
今年は休み時間に災害が発生したことを想定して訓練を実施。
消火栓を使った放水訓練も行いました。

他にも
弾道ミサイルや豪雨、土砂災害、火災、火山、竜巻、落雷、危険生物など
あらゆる災害について学習し、
社会に出てから「いつ、どこで、どのような」災害に遭遇しても
ある程度自分の身を守れるように考えられた内容となっています。

また、志津川高校には昨年発足した「防災クラブ」があり、
救急手当て法の知識を修得する他、
地域の子ども達を安全に導く役や、避難所でのサポート役にまわったり、
将来地域防災のリーダーを担うための能力を身につける目的で活動しています。

さらに、校内には震災指導室を設置。
当時の様子を伝える物品や、寄贈された物、
震災からこれまでの志津川高校の歩みがわかるような物を展示し、
震災の風化を防ぎ、次の世代に語り継いでいく役目を担っています。

今後は
自分たちだからできること、
行っていかなければならないことを考え、実践していくそうです。

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先日、政府から再び地震発生確率の発表がありました。
日本は地震大国ですから、いつ発生してもおかしくはありません。

それは何十年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。
その時に、自分の命を守るため。
東日本大震災で学んだ教訓を生かし、災害を知らない世代へ語り継いでいくこと。

その大切さを改めて実感することができた分科会でした。

各学校の生徒さんも、他の学校が行っている活動を知ることができ、
アイディアを持ち帰ってぜひ実践したいと話していました。

生徒の皆さんにとっても、参加した我々にとっても、
とても有意義な時間になったと思います。

一人一人の活動によって
一人でも多くの命が守られますように。

これからも途絶えることなく、
語り部として、防災・減災活動に取り組んでいくことを誓いました。

第2回東北被災地語り部フォーラム ★夜の部★

皆様こんにちは、マッキ―です。

今週は東北被災地語り部フォーラムweek!
私からは懇親会・座談会の模様をお伝えいたします。

夜はこのフォーラムの目的の一つでもある、
語り部のネットワークを増やすための、交流・親睦を深める活動が行われました。

その1…懇親会

朝11時からの語り部バスからご乗車のお客様にとっては、約7時間程のイベント!

そんな、少しお疲れ気味のお客様のお腹も心も満たすべく、
当館の料理人が腕によりをかけた料理でおもてなし。

鮮魚満載の大きな舟盛りや、

今が旬!気仙沼産の鱈と白子の中華餡かけ!

南三陸産タコと気仙沼産生ワカメのしゃぶしゃぶ等…
三陸の魚介を中心としたメニューが振る舞われました。

まずは皆様、飲み物を片手に乾杯!

100名を超える参加者が集まるりました。
(大人数か一堂に会すると集まると、壮観というか圧巻というか…)

そして、皆様思い思いの料理を楽しみ、
地域や国籍の壁を越え、親睦を深めていました。

アトラクションは南三陸のダンスチーム「陸仙海」の方々♪

アクロバティックで激しい踊りを披露!
会場を盛り上げていただきました。

その2…座談会

そして、夕食後は車座になって語り合う!
座談会が行われました。

こちらは、
座長には、「(公社)中越防災安全推進機構 中越メモリアル回廊 アンバサダー」の山崎 麻里子 様
ゲストには、「東京都・多摩大学情報社会学研究所 主任研究員」の会津 泉 様
「群馬県嬬恋村・鎌原観音堂奉仕会」宮崎 光男 様
「気仙沼市・気仙沼おとひめ会代表」吉田 千春 様
「釜石あの日あの時甚句つたえ隊」 北村 弘子 様
の計5名の熱い想いが垣間見える座談会となりました。

テーマは「なぜ語るのか?なぜ語れないのか?」について、

やはり、人に伝えるには心情が大事であり、
場を決めた語り部だけではなく、お茶を飲みながら当時を語りあうのも一つであるとの事。

時には歌を交えて、ユーモアもある会となりました。

ホテルだからこそ出来る、
22時頃まで、夜な夜な語り合う座談会となりました。

※フォーラムのブログは時系列が若干前後していますが、
後程、行程通りに修正いたします。

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あああ

宜しくお願い致します
\(^o^)/

第2回東北被災地語り部フォーラム エクスカーション~気仙沼コース&石巻・大川小学校コース~

皆さまごきげんよう、ゆきでございます。
まもなく震災から8度目の3月11日を迎えようとしております。
私自身は、震災当日は地元から離れており、直接の被害は免れました。
これからは震災を知らない・覚えていない世代が増えて参ります。

沿岸部に住む以外の方、未災地に住む方も、
自分事に置き換えて考えて頂けたらと存じます。

2月24日・25日と行われた
「第2回東北被災地語り部フォーラム2019」
2日目のエクスカーションをご紹介致します。

エクスカーションとは・・・
エクスカーションは従来の見学会や説明を受けるタイプの視察とは異なり、訪れた場所で案内人の解説に耳を傾けながら参加者も意見を交わし、地域の自然や歴史、文化など、さまざまな学術的内容で専門家の解説を聞くと共に、参加者も現地での体験や議論を行い社会資本に対する理解を深めていく「体験型の見学会」です。

今回は①気仙沼コース ②石巻・大川小学校コース をご用意しました。

気仙沼コースは、気仙沼コンベンション協会の宝田様、橋本様にご案内頂きました。
まず、気仙沼向洋高校旧校舎を訪れます。

気仙沼向洋高校旧校舎は、3月10日より、
「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」として公開されます。
【詳しくはこちらをご覧くださいませ】

そして、㈱阿部長商店の創業者である阿部会長の元自宅を見学しました。
震災当日は約20名が大津波から命を守ることが出来たこの階段は、
「命のらせん階段」と名づけられました。

どちらも震災の脅威や日ごろの備えを伝える大事な遺構です。
復旧・復興を進める中でも、震災を物語る遺構は後世に伝えるためには不可欠です。

一方の石巻・大川小学校のコースでは。


三陸観光コンシェルジェの阿部さんがアテンドし、
道中は前日のパネルディスカッションや分科会の内容も絡めながらのご案内をして頂きました。

大川小学校では、小さな命の意味を考える会佐藤和隆さんにご案内頂きました。

大川小学校は、多くの方が犠牲となってしまった場所です。
佐藤さんも、大事なお子さんをなくしておりますが、
このような悲劇を繰り返さぬよう、伝える活動をしておられます。
皆さん、真摯に耳を傾け、そして質問も多く飛び交いました。

地震や災害は、将来必ず起こること。
その被害をいかに最小限にできるか、多くのものを失わずに済むか。
悲しい思いをする人を一人でも少なくしたい。
私たちの思いを後世に伝えたい。それだけなんです。

いざというとき、どうするか。
それぞれのご家庭で話すきっかけとなれば、幸いです。


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第2回東北被災地語り部フォーラム 第3分科会~「KATARIBE」を世界へ~

皆さん、こんにちは!カナです(・∞・*)
2月も今日を含めてあと2日。
寒さもまた戻ってきたような感じですね..
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さて、一昨日の2月24日・25日に開催された、
「第2回東北被災地 語り部フォーラム」
第1回の開催は2年前の2017年の1月。
それから月日が経過し、だいぶ町も復興へ歩みを進めて参りました。
開始日当日は約400名の方にご参加いただきました。

2011年3月11日「東日本大震災」
東北で起きた未曾有の大震災。
沿岸部は大きな被害を受け、
今もなお、復興途中にあります。

そして、今年の3月で8年をの月日が経過しますが、
8年の歳月が経過する間にも、様々な震災がありました。

2016年4月には熊本地震が発生、
そして、昨年2018年の9月、北海道胆振東部地震発生。
名前がつかなくても、M5以上の地震が何度も起きています。
下記は起きてはいませんが、
報道などでも取り上げられている「南海トラフ地震」
日本海溝側で30年以内に90%の確率でまた、大地震が来る...など、
「沿岸部」・「山間部」・「都心」場所は変わろうとも、
被害が起きるのは間違いありません。

だからこそ、起きた災害を「無かった事」にするのではなく、
現場に居た自分が、周りがそれぞれ伝えられるようにならないといけません。

今日のブログは、私も撮影を兼ねて参加致しました、
【第3部】 分科会③「KATARIBE」(語り部)を世界へ」
について、ご紹介します。

コーディネーターは、東京都・東芝国際交流財団
司会・進行を行って頂きました。  白井 純 様です。

この分科会では、日本の中からではなく、
世界から日本の様々な災害を見たとき、どのように伝えて行けば良いのか、
風化させないためにはどのように世界へ発信していけばよいのか、などを
パネラーの方からお話を聞く事ができました。

私が一番難しい問題だと思ったのは、「言語が変わる外国でどう伝えるか」
様々な言語がある世界で、伝えたいことをうまく全て伝えられない事。
そして、地震や津波を経験した事のない国へはどう伝えるか。

伝える事のむずかしさは、国内だけの問題ではないと感じました。
日本語でもうまく伝えられているか分からなくなってしまう事もあるのに、
外国へ、しかも実際に体験した事の無い人々へ伝えるには...

お話の中では、日本の学生さんがフランスの中学校にて
防災の呼びかけを行った時の事。

フランスは地震がほとんど起きない場所に位置しているため、
「津波や地震ってどんなものなの?」「私達は何に備えればいいの?」など、
質問があったそうです。
その時は「写真」で伝えていたため、映像が無かったことで想像が難しかったのでは、と
振り返りつつ、
「ここでは起きない」「自分には関係ない」のような【他人事(ひとごと)】と感じているから
なのではないかと思ったそうです。

日本では「地震」「津波」などが主ですがその他にもたくさんの災害があります。
もし、自分が知らない土地で出会った事のない災害に遭遇したら..?
自分の安全は自分しか守れません。
その為、「他人事」と思わず「自分事」として捉える事が大事と言う事、
今はもう地球温暖化が進み、今まで起こらなかった災害も世界各地で起きているため、
世界の災害に目を向ければ、世界の命が救われるのではないか。とのお話でした。

他にも、台湾から当館でもインターンシップで研修を行った事のある学生さんも
パネラーとして参加し、
「台湾では日本のように「語り部」が居ない、伝える事ができない」現状や、

イタリア・富山大学都市デザイン学部特命助教の
フラヴィア・フルコ様には、

「復興するにつれて変わっていく町の事をどう伝えていくのか」
→全ての復興が終わってしまえば、もうそれでは「語り部も終わり」で良いのか、
今までどおり伝えていくのか、今後の課題となっていくと思う。との事、

「震災の体験が無い人が多くなると、どうなってしまうのか」
→「皆が語り部」と言っても、経験をした人が居なくなり、
経験していない人が多くなってきたら、どう対応すればよいのか。
「みんなが語り部」になるには、どのように伝えて行けば、
確実なものになるのか。

「外国人の対応ができる語り部は必要か」
→今、「語り部」として活動しているほとんどの人が若年層ではない事、
その為、今から英語を学び英語で語り部を行ってほしい。とお願いするより、
日本語でそのまま震災について語っていただき、
それを外国の方に通訳で伝えれば良いのか、はまだ決定できない課題とのこと。

「語り部は何を語るか、なぜ語るのか」
→もちろん、「伝承」のため、が一番大きなものとなります。
しかしなぜそんなに必要なのか。
それは、もう既に起きている事をその場所だけにとどめてしまえば、
また同じようなことが他の場所で起きたとき、防ぐことができなくなってしまから、
「防災」の意味もあります。
「防火訓練」だってどこかで火事が起きたから、同じことが起きない様にやります。
語り部も同じくして、「自然災害」は防ぐことが難しい。
そのため、少しでも知恵があれば逃げる場所なども分かる事ができる。

だから「語る」「伝える」必要があるのだと聞いていた私自身も思いました。

今回の「分科会③」では日本だけでない外国から見る日本の事も学ぶことができ、
有意義な時間でした。分科会が終わった後も
参加者様の質疑応答が続き、それぞれの意見交換ができたかと思います。
「日本」だけではなく、この出来事を「世界」へ。
「KATARIBE」の言葉が世界共通語になる事を祈っています。

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【語り部フォーラム】はこれだけではありません。
その他の分科会などについては、連続となりますが掲載を行います。
今年、参加できなかった方もぜひご覧頂ければ幸いです。
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あああ

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\(^o^)/